本と、映画と、時々、わたし

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「手持ちのカードで、(なんとか)生きてます。世渡り下手の新しい世渡り術」 読了

手持ちのカードで(なんとか)生きてます。

読了いたしました。

手持ちのカードで、(なんとか)生きてます。

 

普段はYoutubeで三人称の「鉄塔」さんとして知られ、

作家としても活躍している賽助先生の新作です。

同著の「今日もぼっちです」で見られたおもしろおかしいぼっちエピソードに加え、

その時の経験から賽助先生が感じたことや得られたことを言語化した、というような作品となっています。

 

さて、「手持ちのカードで(なんとか)生きてます。」というタイトルからもわかる通り、

こちらの作品は「人生で配られた(限られた)手札」で生きていくにはどうするべきなのか?ひいてはその「手札」をどうやって増やすのか?

そんな題材を上からでも下からでもなく等身大で書いてくれています。

 

どうして勉強しないといけないのか?

本作品を読んで、私は中学の時に抱いた疑問を父にぶつけた日を思い出しました。

「どうしてこんな面白くもねえ、勉強せんとあかんねん。」

学生時代誰もが思ったことがある疑問でしょう。

「そら、おもろいことをおもろいと思うためやろ」

普段はふざけたことしか言わない父ですが、その時は真面目な顔をしていた…と思います。

父はその後落語の「崇徳院*1のCDを聞かせてくれました。

正直その当時の私には何がそんなに面白いのかさっぱり。

「これがおもろい、って思えんのはお前の知識がないからや。」

それだけ言われて悔しくて調べた覚えがあります。

言い方は別として父の言葉には一理あります。

「面白い」ことを「面白い」と思うには知識が重要です。

例えば父の聞かせてくれた「崇徳院」では和歌が落語のサゲ部分で重要です。

つまり大落ちの理解をするのに「和歌」の知識が必要というわけです。

どおりで当時の私がわからないわけですね。気になる方は調べてみてください。

(わかっちゃえばなんじゃい!っていう落ちです笑)

ほかにも言うならば、きっと音楽の知識がある人が音楽を聴くのと知識がない人が聴くのとでは表現者の理解への差が生じるでしょうし、

私でいうと最近韓国アイドルにハマってしまったこともあり、「韓国語」がわかる人とわからない人ではきっと楽しいと思えることの幅に差があると感じています。

(もちろん韓国語だけではなく、言語全てに言えると思いますが)

本作品でいうとこの知識というのは「引き出し」という言葉に言い換えられています。

「引き出しは多いに越したことがない」と賽助先生も書かれていますが、

まさしくそう思います。

自分が「面白い」と思うものを見つけるためには、「引き出しが多い」方が圧倒的に有利だと思います。

「引き出しが多い」方が世の中を面白い、楽しいと思う機会が多いと思うのです。

 

他人のカードは良く見える(隣の芝生は青く見える現象)

落ち込んでいるときよく思うのは

「あの人いいなぁ」というようなことです。

前の段落で書いたようなことだと、例えば韓国で生まれた人は韓国語を学ばなくても韓国語がわかるわけで、私が必死こいて調べて、あっているかもわからない和訳でなんとなくアイドルのことを理解しようとしている時に、自然に理解が可能なわけですから…まぁうらやましくもなりますね。

上にかいたようなことは小さなことですが

所謂「才能」と呼ばれるものは全般に言えると思います。

絶対音感もっていていいなぁ」

「足が速くていいなぁ」

ショートスリーパーうらやましい」

「お金持ちが羨ましい」

などなど、世の中見渡せば羨ましいカードはたくさんあるでしょうし、もはや手に入れられないようなカードも多いでしょう。

自分のいる立場によっても欲しいカードは変わってくるわけなので当たり前ですね。

ただ、「人生」ではババ抜きなどと違って相手のカードを貰うなんてことは簡単にはできないわけです。

いくら相手のカードを見続けたって自分の手持ちカードは変わりません。

本作では、勿論そのことにも触れています。

賽助先生が書かれていたのは自分の「カード」を、いろんな角度から眺めてみるということです。

なるほど、目からうろこでした。

わたしは経験や知識で「カード」を増やすことが可能だと思っています。

本作でも触れられていますが、経験してたくさんカードを増やしたことで、引き出しが増えて仕事の役にたった!ということもあるかと思います。

もちろん、それも一つの手でしょう。手持ちに不満があるなら手持ちを増やせばいいのです。(私も韓国語勉強しなきゃな……)

でも、じゃあ自分が持っていた「カード」は本当に役に立たない「カード」なのか。

それがいわゆる本作で書かれている「いろんな角度から眺めてみる」ですね。

自分からはマイナス、短所と思っている「カード」は本当に弱い「カード」なんですか?という疑問を賽助先生の目線から問いかけてくれています。

あくまで今の「ルール(タイミング)」では弱い、さほど役に立たないというだけかもしれません。

私はいわゆる「ゲラ」に分類される人間だと思うのですが、さほどそれを自慢に思ったり、得したりすることは今までありませんでした。

ただ、コロナが流行り、Web会議が主流になった今・わりと重宝しているのが「ゲラ」であることのようです。

Web会議だと相手の反応が見えない、わからないことによりしゃべっている人が不安になることが多いかと思いますが、私の参加している会議ではしゃべりやすい、と言われたことがあります。

もしかしたら今までも役に立っていたのを私が自覚できていなかっただけかもしれませんが、持っているカードが実は役に立つ場合があるのだということが分かった瞬間です。

本作に書かれていることに比べればかなり弱いたとえかもしれないですが、

皆さんにも実は気が付いていないだけで自分の役に立っているカードや、他の人からうらやましいと思われているカードがあるのではないでしょうか。

 

手持ちのカードで生きる(組み合わせる)、気が向いたら手持ちのカードを増やす

何かを成し遂げないといけない

何かえらいものにならなきゃいけない

そんな焦りを抱えているのはきっと多感な時期の子だけではないと思います。

少なくとも、私は今もその思いは抱えています。

私はこのままでいいんでしょうか、と未来がわかる人がいたら聞いてしまうかもしれないです。

ただ、本作でも書かれている通り

結局「何とかなる」のです。

何にもならなかった、何ならマイナスだったことだってあるじゃないか。

ごもっともです。

そう思う方、ぜひこの作品を読んでみてください。

マイナスのことだってあなたの「何か」になっていることに気が付ける筈です。

 

 

 

14歳のあのころこの作品に出会えていたら

あの時の救われない何とも言えない不安は少しマシになっていたかもしれません。

ただ、いまであえた経験は少なからず私の手札になったわけですから、

もしかしたらどこかで役に立つかもしれません。

14歳でもそうでなくても、

道に迷っている人、プレッシャーに負けそうな人、人と比べてばかりしてしまう人…

人生で何かに対して悩んでいる人はぜひ一度読んでみてください。

もしかしたら、自分の手持ちの「カード」の見方が変わるかもしれません。

 

 

 

 

 

*1:落語。別題に皿屋(さらや)、花見扇(はなみおうぎ)