【ディズニー映画「ウィッシュ」 ネタバレ感想】願いは希望?それとも呪い?
ディズニー100周年記念映画「ウィッシュ」鑑賞してまいりました…!
何の前知識も入れずに行ってきた、一回きりの鑑賞のため
思ったことに対して完全に間違っている可能性はありますがつらつらと書いていこうと思います。
(ネタバレ注意!)
あらすじ…の前に
同時上映の短編「ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-」
まずここでぐっと心を持っていかれました。
ディズニーを幼少期に通ったことがある私としては
ああ!あのキャラが!あのキャラも!?このキャラと一緒に!?
なんて夢のコラボのオンパレード、アベンジャーズを見ている気持でした。
(ヘラクレス大好き人間なのでハデスが出たことに心でガッツポーズしました)
そして、ウォルトの写真を見ながら敬意を表するミッキー
「ありがとう。」
この言葉で悔しいですが涙がぽろりと落ちそうになりました。
「僕はショーを続けるよ。」
何かとポリコレ意識しすぎだ、なんだと最近賛否両論のあるディズニーですが
ぜひとも昔と同様に頑張ってほしいと思える短編。最高でした。
(吹き替えでみたんですけど、山寺宏一さんやっぱり貢献度高い…)
あらすじ
ロサス王国では、民が王に願いを捧げ、いつか願いが叶うと信じて暮らしていた。
ある日、アーシャは、王が民の願いを閉じこめて支配していることを知ってしまう。
みんなの願いを取り戻すために、アーシャは空から降りてきた願い星“スター”と、王に立ち向かう。
―映画ナタリーより引用*1
あらすじとのギャップ
前情報を入れる前に見たもので、映画を見た後にこのあらすじを見たのですが
なんだかちょっと印象が違いました(吹き替えだからかな?)
「王が民の願いを閉じこめて支配していることを知ってしまう」
特にこの部分です。
一番最初に主人公アーシャがロサスとはどういう国かを歌で説明してくれます。
「♪ようこそ!ここはロサス~」
みたいなところですね。
歌で説明される内容は
ロサスには一流のものが勢ぞろいしていてどうやら国はかなり発展しているらしいこと
そして民は国王に願いをささげると、月に1度選ばれたものがその願いをかなえられる
そんな魔法を開発したのがこの国の王様「マグニフィコ王」ですよ~~と
願いをかなえる魔法!?チートじゃん!っていう感じですよね。
何か副作用があるんじゃないか?!と説明された新規入国者が言うわけですが
それに関しても民たちにはきちんと知らされている様子。
「何を願ったか忘れる」
つまり、民は願いを王に渡すとその願いが何だったかというのをわからないまま、まぁいつかかなえてくれるでしょ!ってことで平和に暮らしている、というような状態です。
さて、そんな中
どうやらマグニフィコ王は後継者を探そうとしているらしい、ということがわかります。
魔法使いとして弟子をとろうとしているようですね。
それに女王「アマヤ」の推薦(?)で選ばれたアーシャは、マグニフィコと謁見します。
アーシャは自分の父が小さい頃に亡くなったことを話すと、マグニフィコも自分が魔法の力を手に入れる前に国を焼かれ自分も幼いころに両親を失ったと話します。
どうやら境遇が一緒であるということで打ち解けたよう、マグニフィコは誰にも見せたことがないというみんなの願いの玉が集まった部屋へアーシャを通します。
そこでアーシャは今年100歳になる祖父「サビーノ」の夢を見つけます。
サビーノの夢は音楽で若者にエネルギーを与えたい。
アーシャはこの夢を今度のセレモニーでかなえてほしいとマグニフィコに頼みますが、
マグニフィコはその夢を見た後申し訳ないが…といって断ります。
この夢は危険だ。と。具体的ではない。ふわふわしている。
エネルギーとはどういうエネルギーだ?負のエネルギーかもしれない。
アーシャは祖父はそんなことする人じゃない!と反論しますが
まぁマグニフィコ的にはそんなことわからないので、いや無理ですとつっぱねます。
じゃあかなえられない夢ならば、みんなに返してあげたらいいじゃないとアーシャはマグニフィコに進言しますが、
かなわない夢を返したら本人が苦しむ可能性があるからここで大事に保管しているんだ。とマグニフィコは自論を呈します。
さてここまでの一連の流れ、マグニフィコ王の思いもわかりますし、アーシャの気持ちもわかります。いわば正義同士のぶつかり合いな気がします。
かなわない願いは苦しいし、かわいそうだから…保管しておいた方が平和に暮らせるじゃないかというマグニフィコ
かなわないかどうかは王様が決めることじゃないから返してあげた方がいいに決まってる!というアーシャ
己の信念が違う者同士がぶつかってしまった、とそれだけだと思うのですが…
「王が民の願いを閉じこめて支配していることを知ってしまう」
何だか違和感です。
何も無理に、民から願いをよこせー!と奪い取っているわけでもありませんし、
王様には王様の考えがあって、民たちのことを思い大事に「保管」しているわけです。
しかも奪われるのは18歳になったもの=大人とみなされたものだけ。
つまり自分で判断できる年齢まで待ってくれるわけですから…
願いをささげた民たちは願いを忘れることも了承したうえで、
かなわない夢を持ち続ける苦しみに耐えきれないから「預けて」いる
そんなに悪いことしているか?というのが第一印象です。
国民が全員他人頼り
さてここからスターの登場です。
「♪この願い~」っていう歌ですね。あれを夜空に向かって歌い上げるアーシャ。
アーシャが星に願いをささげると、星が文字通り降ってきます。
どうやらこのスター
王様とは違い、願いを「叶える」力はないものの
願いを「気づかせ」たり、願いを叶える「勇気」をくれたり、っていうような生物なようです。
これはおそらく「ディズニー映画」のことをさしているんだろうなぁと個人的には思いました。
スターが生物に触れると人間でいうと心臓の部分がキラキラと輝きます。
人間本来が持っている「願いの力」のようです。
そしてスターはもう願いを王様に捧げてしまったアーシャの友達に触れると悲しい顔をします。しかも胸が光らない。
これは王様に願いをとられてしまったからだ、というわけですね。
せめて祖父の願いは返したい、とアーシャは王様の部屋に忍び込むことにします。
(友人に王様できるだけ引き止めといて!と無茶ぶりをして)
アーシャが忍び込む間、マグニフィコ王は昨日スターが降ってきた際に放っていた光が気になり、国民に何でもいいから情報を集めてほしいといいます。
日頃夢をかなえるお仕事をしているのだから、見返りとして協力してくれぇっていう感じですね。
マグニフィコ的には過去国を焼かれたトラウマもあるようですし、反乱分子であるのなら早めに対処したいということでしょう。
さて、時間を稼がなければいけない友人。国王に質問します。
「情報ってなんでもいいんですか?信憑性とか…見ただけとか…聞いただけとか…」
その疑問に国民たちがそれぞれ意見を言い出し、騒ぎ始めます。
裏切り者を見つけたいなら、月1でやっている願いをささげる儀式を増やしたらいいんじゃないか?
その言葉に王様は驚いた後、
願いを自分でかなえる気はないのか?と聞く
国民たちはうんうんとうなずくばかり。
マグニフィコはため息をついて、裏切り者を見つけたら願いを叶えてやると言って去ります。
これがその礼だと!?
さて謁見を終えたマグニフィコ
癇癪を起します。
このシーンめっちゃわかるぅー!!となりました。
自分は二度と同じ悲劇を見たくないから努力して努力して、いろんな魔法書を読み漁って今の「願いをかなえる」魔法を手に入れた。
そして最初は善意で民たちの願いを叶えていた。
ただ、国を発展させたり、国を守ったりするには叶える願いと叶えない願いを選別する必要がある。
一人で国をひっぱり、国民からの期待にも応え、そして発展したロサス王国
出来上がった国民は願いを叶えてくれるからまぁ努力しなくていいでしょ!っていう国民性の民達……(まぁ願いを差し出すと忘れるから努力しようがないっていうのはありますが…じゃあささげなきゃいいわけですしね。)
自分を慕ってくれていると思ったら、願いを叶えてくれるなら何でもいいと言わんばかりのあの態度…
何だか仕事を思い出してしまいました……。
善意で伝えた提案を「じゃあ気づいたんなら君がやってよ」と自分の責任範囲外の仕事を押し付けられた時のあの気持ち。
ありがとうの言葉もなく、ただ自分の仕事が増えたというだけのあの時の感覚…
もうしらねぇえ!!!っていう感じですよね。
マグニフィコに関してはおそらく数十年はこの国を守るためにいろいろしていたでしょうから、より失望も大きかったことでしょう。
そしてマグニフィコは禁断の書に手を出します。
どうやらこの禁断の書一度手を出すと、「魔法に飲み込まれる」とのことで、本人の人格もゆがんじゃうっぽい説明がされます。
マグニフィコはそこから人が変わったように、願いを平気でパリンパリンわっちゃいます。なんならアーシャの前でお母さんの夢もバリンと割っちゃいます。(わお!本当に人格変わってない!?)
落ちがひどすぎる
願いを割られると胸にぽっかり穴が開いたような悲しみを抱くようです。
(相当苦しそう)
アーシャは謝りながらも、このままではすべての願いが王様によって利用されてしまうと思い、願いをすべての国民に返そうと画策します。
王様はというと、「スター」の力を逆に手に入れるため、国民の願いを犠牲に杖を作ります。
なんやかんやあって、願いが国民に戻るのですが、
その際に王様は逆に魔法にのまれ、杖の中に閉じ込められてしまいます。(杖の先端にある鏡?の中ですね。)
私としては、まぁ願いを割ってしまって犠牲になってしまった人もいるし、杖の中に閉じ込められて二度と出てこれないとかも仕方ないのかなぁと自分を納得させようとしていましたが
お母さんに願いが戻るシーンがあるんですよね。どうやら割られた願いも戻るよう。
そしてそんな中…
マグニフィコの声が小さな鏡の中から聞こえます。
そしてマグニフィコ王は妻アマヤにすまないここから出してくれないか、というのです。
マグニフィコ王の様子を見ていればわかりますが結構妻のこと大事にしているんですよね。
結局禁断の書に手を出してはしまいましたが、一度は妻の忠告を聞いて禁断の書を棚に戻しますし、
禁断の書に手を出した後もルンルンで妻にこんなことするんやでぇ~って伝えてますし…
ただ、アマヤとしては願いを犠牲になんてしちゃだめだよってことでアーシャ側についたわけですね。ここまではわかる。
そして…問題のシーン。一番私が納得がいかないところです。
鏡に閉じ込められたマグニフィコに対し、アマヤが言います。
「自分のことが好きなんでしょ?よかったじゃない。地下牢に入れておいて」
ええ!?
どういうこと!?
罰が重すぎない!?
泣きそうになりました。ひどいじゃないか。
確かにマグニフィコは何人もの願いを犠牲にし、最終的には洗脳なんかもやってましたが、アーシャのおかげでそれらはすべて元に戻りました。
じゃあマグニフィコが全部悪いの?っていうとそうではない。
手段は間違えてしまいましたが、マグニフィコは国を守りたかっただけです。
しかも最初は善意で願いを叶えていた魔法使いです。
そこに人々が俺も私もと集まってきてできた国がロサス。
この国を発展させたのもマグニフィコ王です。
まるでその国を乗っ取る形でアマヤとアーシャが君臨します。
アーシャはまだ子供。おそらく実権を握るのはアマヤでしょう。
アマヤの人物像があまり掘り下げられないがゆえに、ええ!?あんたなにもこの国に貢献してないやん!?という突っ込みが捨てきれません。
偉大な魔法使いについてきた、そして願いが選別されていることも知っていた
同罪人のはずなのに、まさかの寄りそうでもなく突き放して地下牢に夫をぶち込む…こわすぎる。
たとえばこれが、マグニフィコは実は最低な男で願いを叶えていたのは実際アマヤでした、という設定になっているとか
マグニフィコは表ではいい男だがとんでもないDV男で暴力でアマヤを支配していた設定があるとかなら理解はできますが、
見ている限りは愛妻家にみえますし…。
だったら、
「あなたとはいっぱい話さなくてはならないわね。」といって鏡と一緒に去るとか
最後落ち込んでいる王にアマヤが近づいてもう一度やり直しましょう。なんて言って改心した王様は杖から解放されて終わるとか…いろいろあったでしょうに…と思います。
(途中で王様が「真実の愛」なんてない!といいながら願いを割るシーンがあるんですが…まさしく真実の愛なんてなかった…)
マグニフィコ王への掘り下げやキャラクターの魅力が高く何とも言えない気持ちになってしまいました。
音楽と声優は最高
しかし悪いところばかりじゃないです。
音楽はさすがディズニー映画、最高です。
耳に残るフレーズ、帰りに思わず口ずさんでしまう覚えやすいメロディライン
サントラ買うか悩みました。
そして声優さん。
吹き替え版で見たのですが、アーシャの声をやっている生田さん、すっごいうまい!しかいえないくらい活発ででも芯のある声。
福山雅治さんも今回声優・ミュージカル初挑戦とのことでしたが
無礼者たちへ!を聞いてみてほしいです。「おう?!福山こんな歌い方できるの?」と私は驚きました。
音楽最高、声優最高、
しかしストーリーが100周年なのに大団円で終わらない悲しさ…がすごかったです…
願いは希望か呪いか
さて、
「願い」は呪いなのか希望なのか。
両側面あるんだろうなと思いました。
かなわない、って思って決めつけているのは自分や他人が勝手にだったりします。
大抵の場合、自分で勝手に願いを何かしら理由をつけて、叶わない呪いに変えてしまっているのです。
「この年じゃもう…」
「非現実的すぎるしダメだ…」
「時間がないし…」
「力がないし…」
いったんやってみてからいいなさい!っていうメッセージ性はなんとなく伝わりました。
やったものだけが、星に願いをかけていいんです、っていうような感じですかね。
神頼みにするのは自分の願いに努力をしたやつらだけでいい!
まずはやってみることが大事!
願いを願いとして持ち続けるのは結構体力がいりますね…
ロサス王国があったらきっと私は一生このままでいいや~タイプなので王様の怒りを買ってしまうかもしれません。
本作を教訓に自分の願いを今一度考えてみようかしら…
今回はここまで…!
本年最後の更新になるかと思います。
思い付きで始めたブログですが、なかなか文章を書くの面白いですね。難しいですが。
読んでくれた皆様ありがとうございました。
来年も気まぐれに書いていこうと思います。よろしくお願いします
【Talk to me ネタバレ感想】憑依チャレンジ! 心の整理をするために話す重要性
気になっていたA24最新のホラー映画「トーク・トゥ・ミー」を鑑賞しましたので、
感想をべらべらと書いていこうと思います。
あらすじ
2年前の母の死と向き合えずにいる高校生ミアは、SNSで話題の「90秒憑依チャレンジ」に気晴らしに参加してみることに。それは呪われているという手のかたちをした置物を握って「トーク・トゥ・ミー」と唱えると霊が憑依するというもの。ルールは、簡単
①手を握り、「Talk to me.」と唱える
②そのまま「I let you in.」と唱える
③手は必ず90秒以内にはなすこと
強烈なスリルと快感にのめり込みチャレンジを繰り返すミアたちだったが、メンバーの1人にミアの亡き母が憑依することから事態が大きく動き出す…
90秒憑依チャレンジ
90秒憑依チャレンジ、と言われているだけあってどうやらこの降霊術、かなり「ハイ」になれる…ようですね。
「ドラッグ」のメタファーとのことで
たしかにこのチャレンジをやっている若者たちは所謂「ドラッグパーティ」を開催して、痛い目を見るような若者の集まりに見えました。
主人公たちの話が始まる手前の長回し部分「コール」という男性が弟「タゲット」を探し回っているシーンなどは特に。
彼らは「90秒憑依チャレンジ」のために集まったのでしょう、けれど肝心の「手」の持ち主タゲットが一向に部屋から出てこない。だがそれを気にしている人物はパーティ会場の家の男のみ。
コールがタゲットを連れ出し、家に連れて帰ろうとするとタゲットは支離滅裂なことを言い始め、コールを刺し、自分の頭も刺し貫く…
会場は一気にパニック。
ドラッグを回してやってたら一人が中毒を起こして倒れて痙攣し始めた、といったような状態に似ていますね。
どちらにせよ、ドラッグのメタファーであるということはなるほどわかりやすいな、と思いました。
幽霊を憑依させるのが気持ちがいいという発想は新しくて面白いですね。
主人公ミアへの思い
主人公ミアですが、残念ながら私は始終イライラしながら見てしまいました…。
歩み寄ろうとしている父親との会話を避けているのにもかかわらず、友人に依存する、その友人に依存できなくなったら友人の恋人である元カレに依存する。
依存先をころころと変えているにも関わらず、依存先である人々と「心の底から」つながった会話をしていない、うわべだけの関係性(壊したくないからという恐れもあるのかもしれないが…)
ミッド・サマーの主人公にも感じた完全依存型主人公。
しかも何故か友人の言葉や歩み寄ってくれた父親の言葉には耳を貸さず、幽霊のいうことは聞くという……
もちろん幽霊が母親を装っているというのはあるが…それに関しても友人たちがもしかしたら化けているかもしれないと忠告しているシーンもあったので、もう少し疑ってもいいんじゃないのか?と思ってしまったのが事実です。
ただ、ミッド・サマーの時も思ったがイライラする、というのもそれだけ俳優さんや脚本家がうまいのだと思うのですが…
とはいえ、私は本作の主人公への感情移入は全くできなかった。というのが率直な感想です。
ホラー作品として
ホラー作品としてはなかなか好きな部類です。
幽霊の造形はおぞましく、不気味…(日本とは違いグロ多めなのは国民性の違いだと思っているけれど)
そして多くもなく少なくもない、ちょうど良いタイミングでジャンプスケアを入れてくれる。程よく怖がれたので、個人的には結構楽しかったです。
印象的なのは最終局面のシーン
「彼は救いを求めているわ」なんて幽霊にそそのかされ、友人ジェイドを嘘の電話で病院の外へ連れ出し、弟「ライリー」を手にかけようとするミア。
そんな彼女のもとへそうとは知らず、ライリーの母親が来る。
彼女はミアに対し、ライリーが運ばれた日に怒鳴ってしまったことを詫び、彼女を「家族」として認め抱きしめる。ちゃんとした大人だぁ…と思いました。なんて素敵な母親なんだろう、最初は厳しいなぁなんて思っていましたが、子供たちを守るのに親も必死なんですよね。
しかし、ここで改心しないミア。ライリーと二人きりにしてくれ、と母親に頼み、ライリーを手にかけようとします。
しかし自分では手にかける勇気がなかったのだと思います。そのままライリーを連れ出し、車いすに乗せ近くの道路へ。
結果友人ジェイドが何とか駆け付け、ライリーは無事・ミアだけが車に跳ね飛ばされる……という状況となります。
そして部隊は急に病院へ。
目を覚ましたらしいライリーとジェイドその母親がにこやかに話しているシーン。
ミアが声をかけても反応すらしない。
途中友人たちに話しかけるもそちらも反応なし。
そこでミアは何かに気が付き自分の手を見る。バキバキに折れている状態。おそらく、何の痛みも感じていなかったんでしょうね。自分が幽霊だということにここで初めて気が付きます。
病院を去っていく父親の背中を発見し、一人にしないで!と叫びながら父親を追いかけるも幽霊となったミアの姿は父親にも見えず……真っ暗闇。
そんな中…
シュッ
マッチを擦る音
ぼうっと浮かび上がるろうそくの光…
そちらへ向かうと、手が差し伸べられている。
ミアがその手を握る…異国の若者たちのようだ。
その若者たちが何かわからない言語で話した後次の言葉を告げる
「Talk to me」
個人的にはかなり好きな落ちでした。だからこそ、ミアに感情移入できなかったのがかなり残念な印象です。
幽霊は孤独
個人的に心霊やオカルトは好きなのでYoutubeでもかなり見ているのですが、
トクモリザウルスチャンネルの「ヤースー」さんの話を思い出しました。
幽霊は孤独だということ。
どういうことかというと、
私たちは生きている間に「幽霊」を見たことがある人の方が少ないと思います。私も見たことはありません。
そして幽霊を見たことがある人の中でも常時見えている人は本当に少ないと思います。
さて、では自分が「幽霊」になったときに…幽霊は見えるでしょうか?
幽霊=化け物というわけではなく、幽霊はもともと人間です。人間にできないようなことはできないらしくつまり…幽霊になっても幽霊は見えない。生きている人間は見えるけれど自分と同じ死んだ人間は見ることはできない。
つまり、ずっと孤独なのだそうです。
なんとなく説得力のある話だなと思いました。
たしかに、幽霊になったからといって急に幽霊が見えるようになる!っておかしな話ですよね。
勿論証明のしようもないのですが、面白い話だと思っています。
そしてそんな孤独な状態で数年、数十年過ごしていた時、
自分を見て「はっ」という顔をする人間を見つける。
気づいてくれた!と幽霊は寄ってくるそうです。
やっと私に気が付いてくれた、私の話を聞いてほしい、私を見てほしい…
数十年の孤独に比べれば一週間その人のもとで何かを言い続けるなんて平気…という理論で人にとりつく幽霊が一定数いるともいっていました。
今回の作品はまさしくそうなんじゃないでしょうか?
幽霊同士でちゃんとした会話が成り立っていない、もしくはミアが体験したような真っ暗闇に一人ぼっちの世界。
そしてそんな中自分と「Talk to me」と言ってくれる人物が現れたら……
Talk to me.
主人公ミアは一貫してストレスに対して「逃避」を選んでいるように見えました。
母親が自殺であるという事実を父親から告げられても受け入れていないこともそうですが、
依存先である友人宅を失いたくないが故、家のルール、降霊術のルールを破り、友人の「弟」を危険にさらす
友人の母親から激怒された際も許しを請い続けるのではなく、その場から立ち去り駆け付けた優しい元カレへ依存など…(まぁその元カレも幽霊が憑依してしまったミアから逃げていくのだけれど)
ミアは本当に心の底から誰かと「話す」ということから逃げ続け、母親の死を受け入れることができないまま、2年…悲しみを乗り越えず逃げ続けてきたように感じました。
そして死んでしまった後に見たこともない異国の若者に「Talk to me」と初めていわれる。
何とも皮肉の聞いた終わり方ですね。
人はだれしも悲しい体験、つらい体験をする瞬間があると思います。
ただ、それを誰にも話さず抱え続けていたらこうなっちゃうよ、っていう話なのかなぁと思いました。(にしてもミアの行動心理にはなかなか納得がいきませんでしたが……)
何かストレスフルなことが起きた時、
誰でもいい、身近な人に話せないならセラピストでも、医者でも、その辺にいる犬や猫でも、「話す」ということは大事なんだと思います。
吐き出すことで自分の状況は整理できる。
なんならブログに「書く」ってのもいいかもしれません。
悲しみから逃げず、自分の中で乗り越えるための行動を起こしていこう、と…まぁそんなところで今回の感想はおしまいです。
同日に「ウィッシュ」も見てきたのですがそちらの感想はまた今度。
「手持ちのカードで、(なんとか)生きてます。世渡り下手の新しい世渡り術」 読了
手持ちのカードで(なんとか)生きてます。
読了いたしました。
普段はYoutubeで三人称の「鉄塔」さんとして知られ、
作家としても活躍している賽助先生の新作です。
同著の「今日もぼっちです」で見られたおもしろおかしいぼっちエピソードに加え、
その時の経験から賽助先生が感じたことや得られたことを言語化した、というような作品となっています。
さて、「手持ちのカードで(なんとか)生きてます。」というタイトルからもわかる通り、
こちらの作品は「人生で配られた(限られた)手札」で生きていくにはどうするべきなのか?ひいてはその「手札」をどうやって増やすのか?
そんな題材を上からでも下からでもなく等身大で書いてくれています。
どうして勉強しないといけないのか?
本作品を読んで、私は中学の時に抱いた疑問を父にぶつけた日を思い出しました。
「どうしてこんな面白くもねえ、勉強せんとあかんねん。」
学生時代誰もが思ったことがある疑問でしょう。
「そら、おもろいことをおもろいと思うためやろ」
普段はふざけたことしか言わない父ですが、その時は真面目な顔をしていた…と思います。
正直その当時の私には何がそんなに面白いのかさっぱり。
「これがおもろい、って思えんのはお前の知識がないからや。」
それだけ言われて悔しくて調べた覚えがあります。
言い方は別として父の言葉には一理あります。
「面白い」ことを「面白い」と思うには知識が重要です。
例えば父の聞かせてくれた「崇徳院」では和歌が落語のサゲ部分で重要です。
つまり大落ちの理解をするのに「和歌」の知識が必要というわけです。
どおりで当時の私がわからないわけですね。気になる方は調べてみてください。
(わかっちゃえばなんじゃい!っていう落ちです笑)
ほかにも言うならば、きっと音楽の知識がある人が音楽を聴くのと知識がない人が聴くのとでは表現者の理解への差が生じるでしょうし、
私でいうと最近韓国アイドルにハマってしまったこともあり、「韓国語」がわかる人とわからない人ではきっと楽しいと思えることの幅に差があると感じています。
(もちろん韓国語だけではなく、言語全てに言えると思いますが)
本作品でいうとこの知識というのは「引き出し」という言葉に言い換えられています。
「引き出しは多いに越したことがない」と賽助先生も書かれていますが、
まさしくそう思います。
自分が「面白い」と思うものを見つけるためには、「引き出しが多い」方が圧倒的に有利だと思います。
「引き出しが多い」方が世の中を面白い、楽しいと思う機会が多いと思うのです。
他人のカードは良く見える(隣の芝生は青く見える現象)
落ち込んでいるときよく思うのは
「あの人いいなぁ」というようなことです。
前の段落で書いたようなことだと、例えば韓国で生まれた人は韓国語を学ばなくても韓国語がわかるわけで、私が必死こいて調べて、あっているかもわからない和訳でなんとなくアイドルのことを理解しようとしている時に、自然に理解が可能なわけですから…まぁうらやましくもなりますね。
上にかいたようなことは小さなことですが
所謂「才能」と呼ばれるものは全般に言えると思います。
「絶対音感もっていていいなぁ」
「足が速くていいなぁ」
「ショートスリーパーうらやましい」
「お金持ちが羨ましい」
などなど、世の中見渡せば羨ましいカードはたくさんあるでしょうし、もはや手に入れられないようなカードも多いでしょう。
自分のいる立場によっても欲しいカードは変わってくるわけなので当たり前ですね。
ただ、「人生」ではババ抜きなどと違って相手のカードを貰うなんてことは簡単にはできないわけです。
いくら相手のカードを見続けたって自分の手持ちカードは変わりません。
本作では、勿論そのことにも触れています。
賽助先生が書かれていたのは自分の「カード」を、いろんな角度から眺めてみるということです。
なるほど、目からうろこでした。
わたしは経験や知識で「カード」を増やすことが可能だと思っています。
本作でも触れられていますが、経験してたくさんカードを増やしたことで、引き出しが増えて仕事の役にたった!ということもあるかと思います。
もちろん、それも一つの手でしょう。手持ちに不満があるなら手持ちを増やせばいいのです。(私も韓国語勉強しなきゃな……)
でも、じゃあ自分が持っていた「カード」は本当に役に立たない「カード」なのか。
それがいわゆる本作で書かれている「いろんな角度から眺めてみる」ですね。
自分からはマイナス、短所と思っている「カード」は本当に弱い「カード」なんですか?という疑問を賽助先生の目線から問いかけてくれています。
あくまで今の「ルール(タイミング)」では弱い、さほど役に立たないというだけかもしれません。
私はいわゆる「ゲラ」に分類される人間だと思うのですが、さほどそれを自慢に思ったり、得したりすることは今までありませんでした。
ただ、コロナが流行り、Web会議が主流になった今・わりと重宝しているのが「ゲラ」であることのようです。
Web会議だと相手の反応が見えない、わからないことによりしゃべっている人が不安になることが多いかと思いますが、私の参加している会議ではしゃべりやすい、と言われたことがあります。
もしかしたら今までも役に立っていたのを私が自覚できていなかっただけかもしれませんが、持っているカードが実は役に立つ場合があるのだということが分かった瞬間です。
本作に書かれていることに比べればかなり弱いたとえかもしれないですが、
皆さんにも実は気が付いていないだけで自分の役に立っているカードや、他の人からうらやましいと思われているカードがあるのではないでしょうか。
手持ちのカードで生きる(組み合わせる)、気が向いたら手持ちのカードを増やす
何かを成し遂げないといけない
何かえらいものにならなきゃいけない
そんな焦りを抱えているのはきっと多感な時期の子だけではないと思います。
少なくとも、私は今もその思いは抱えています。
私はこのままでいいんでしょうか、と未来がわかる人がいたら聞いてしまうかもしれないです。
ただ、本作でも書かれている通り
結局「何とかなる」のです。
何にもならなかった、何ならマイナスだったことだってあるじゃないか。
ごもっともです。
そう思う方、ぜひこの作品を読んでみてください。
マイナスのことだってあなたの「何か」になっていることに気が付ける筈です。
14歳のあのころこの作品に出会えていたら
あの時の救われない何とも言えない不安は少しマシになっていたかもしれません。
ただ、いまであえた経験は少なからず私の手札になったわけですから、
もしかしたらどこかで役に立つかもしれません。
14歳でもそうでなくても、
道に迷っている人、プレッシャーに負けそうな人、人と比べてばかりしてしまう人…
人生で何かに対して悩んでいる人はぜひ一度読んでみてください。
もしかしたら、自分の手持ちの「カード」の見方が変わるかもしれません。
*1:落語。別題に皿屋(さらや)、花見扇(はなみおうぎ)
「ジャンル特化型ホラーの扉」読了
ホラーの扉読了しました。
私はホラー作品が大学時代から好きになった覚えがあるのですが
未だになぜ人はホラーを見るのか?をたまに考えます。
お金を払って怖い思いをする
お金を払って胸糞悪い気持ちになる
文章にしてみるとなかなか理解し難い構造ですが
常日頃思っているのは、お笑いとホラーは紙一重
面白い話も怖い話も序盤に人の心をつかみ、離さないまま最後の真相でどっと、会場を沸かす
そんな心を掴まれる感覚を味わいたくてみているような気がします。
本作は、
5W1Hに基づいてホラー作品をジャンル分け
どうしてこのホラーは怖いのか?
どうしてこのホラーは人を魅了するのか?
わかりやすく解説してくれます。素晴らしい。
- Who:恐怖対象が誰か(幽霊、人)
- What:恐怖対象が人以外(何かわからないもの)
- Why:恐怖対象が理由(サスペンス)
- Where:恐怖対象が場所(村とか)
- When:恐怖対象が、時(SF)
- How:恐怖対象が表現方法(モキュメンタリー、口伝怪談)
これらが組み合わさって昨今のホラーはできてると。
この本は分かりやすくこのひとつに特化して寄稿してもらったオムニバスですね。
最近見たホラーだと
犬鳴村、樹海村、牛首村、忌怪島
これらはWhere×Whenでしょうか。
清水崇監督はSFをホラーに取り入れたり新しいことを模索しているという感覚です
劇場で見たミンナノウタ
これはWho×Whyですかね。
ただ、Whyには色々あると思っていて、
沢山ディテールを描いて、そんなことあるなら仕方ないよね恨むよねと、恐怖対象に寄り添えるパターンと
理由が明かされてなお なんで?!という気持ちになる怖さのあるもの(私はこちらが好みですが)
ミンナノウタは正しく、理由を知ってなお何故?!やめてよ!とじわじわずっと怖いそんな映画でしたね。アイドル映画と思ってる方、怖いんで見てみて下さい
と、著作から話が少し外れてしまいましたが
オムニバスの中で特に印象に残ったのは雨穴氏の「告発者」、五味弘文氏の「とざし念仏」
自分がこの立場になってしまったら?
閉塞感、緊張感、焦燥感
じんわりとずーっと汗ばむ恐怖
たまりませんでした。
この作品おそらくどこからよんでもいいと思います。
気になる作家さんから
気になる作品から
まずは解説から
色んな読み方ができる素晴らしい著書。
ホラー好きの方々に新たな着眼点をくれるような。
そんな本でした。
苦手な人もなんで苦手かの理由が分かれば楽しめるかも!
オススメです。
#ホラー #ホラーの扉 #本 #読書